至誠通天

良い行いも悪い行いも、お天道様はご照覧

今のうちに

右手が使えない間に、左を強化しようと考えて、左ジャブと左ストレートを今まで以上に練習しました。
左ジャブだけを練習していた時よりも、数段、自分の思うように動くようにはなっていましたが、レベルがまだまだ低いです。
サンドバックもミットも今まで以上に打ちました。そして、走り込み。
練習終わりのランニングは、みんなの2倍の距離を走りました。
主将に、あんまり無理するな、と言われるぐらい走りました。
そうでもしないと、自分だけが取り残されて行くような感じがして不安でした。

右手の添え木は、2週間ほどでとれましたが、しっかり拳を握れるようになるまでには、それからまだ何ヵ月もかかりました。
後はしっかり拳が握れるように、自分で、自分なりのリハビリをしていました。
自転車のグリップも握れるようになったので、新聞配達も元の区域に戻りました。
新聞配達をして、それから大阪城までロードワークへ行きました。
家から大阪城の外周を回って帰って来たら大体8.4㎞ぐらいでした。
ただただ、強くなりたかったから、走りました。
「走る事が一番の根性づくり」と、自分に言い聞かせて走りました。
この大阪城へのロードワークもいずれ僕にとってボクシングの師匠になる有名なトレーナーから、直接ボクシングのコーチをしてもらえるきっかけになるのです。

ちょっと、横道にそれますが、なぜ僕が新聞配達を始めたかというと、それは自分が弱い人間なので、ボクサーにとって一番大事な、朝のロードワークサボってしまうだろう。新聞配達をすれば、何が何でも朝早く起きて、走る事になる。自分をサボらせない為に新聞配達を選んだのです。
それともう一つ。僕は、親の反対を押し切り、学費の面倒は一切かけないと言って大学へ行ったからです。当時、おやじは、おじいちゃんが興した会社の事実上の社長でした。世間中が不景気のど真ん中で、うちの会社も例外ではありませんでした。
製造業をしていた会社は、仕事が少なく、収入がありませんでした。
高校時代もそうだったのですが、僕がアルバイトで稼いできた給料を「税金や」と言って家に入れるように言われていました。
そんな中で、何とか入学金だけは無理して出してもらいましたが、それ以降、学費はもちろん、交通費やノート代まで一切面倒をかける事はありませんでした。
当時の学費が月々3万円でした。新聞配達のバイト代の殆どを学費に当てました。
「僕が持っていたら使ってしまうので、預かっといて」と、言っておやじに毎月渡していました。
僕は、ボクシングを絶対にしたかったので、バイトする事でボクシングの練習時間を少なくすることはしたくなかったのです。
それだったら朝しかない。新聞配達だったら走れるし、バイト代も稼げて学費が払える。
もう新聞配達しかないと思って販売店へ直接行って、バイトさせてもらう事になったのです。