至誠通天

良い行いも悪い行いも、お天道様はご照覧

O君引退

あまりのショックに言葉がなかった。控室で着替えをして帰る事にした。いつもならメインエベントまで観て帰るのだが、もう気力がなかった。体育館の出口でO君とは別れました。帰りの地下鉄の中でも、理解できなかった。

彼は何故ボクシングをやりだしたんだろう。

「今まで馬鹿にしてきた奴を見返してやりたい。」

確かに彼はそう言っていた。練習も毎日真面目に来ていた。そう、真面目にだ。それなのに、何故試合であんな風になるんだ。

やはり彼にはボクシングは無理なんだ。と結論をだした。勝っていても辞めさせるつもりだったが、これで彼も諦めるだろうと思っていました。

試合の次の日は、試合に出た選手は、ジムに試合のお礼を言いに来ることになっている。O君も来たらしい。その時にはまだ、僕はジムに行っていなかったので、会えなかったが、会長に「もう一回やらせてほしい」と、言ってきたらしい。会長も、もう、やめとけと言ったらしいが本人はまた練習に来ると言って帰ったそうだ。それを聞いた僕は、練習には参加せずに携帯電話に電話した。

「話があるから時間を作ってほしい。」と。O君は承諾してくれその夜会うことになった。近くの牛丼屋で食事をして、喫茶店へ入って話をした。

「君は、将来どんな仕事がしたいんや?」

「寿司屋になりたいです。」

「それやったら、寿司屋の修行をやり。今からでも遅くないから、どこかの寿司屋さんで修行し。」

「でも、僕はまだボクシングがしたいです。」

「もうボクシングは諦めなだめや。健康増進でやるなら構わない。でも、プロとして試合をすると言うなら反対だ。」

「僕は、今まで僕を馬鹿にしてきた奴らを見返してやりたいんです。」

「いやダメや。見返す方法はある。一人前の寿司職人になって、店を持って見返してやれ。」

「いや、僕はボクシングで見返してやりたいんです。」

「絶対にダメ。」

こんなやり取りを何時間もしていました。「俺は一生懸命に練習して強くなって見返してやる」と、期待を持ってきている人間に「お前は素質がないからやめてしまえ。」と、言っている事に申し訳なさと、悲しさが込上げてきて、気が付いたら泣いていました。

「君はボクシングでは見返す事は出来ない。そのエネルギーを寿司の修行に向けなさい。俺にしごかれて来たのだから寿司屋の親っさんに殴られることぐらい何ともないやろ。ボクシングやったら毎日殴られて、鼻血を流さなくてはいけないけれど、そんなことしなくても、寿司屋の大将になった方がいい。」

O君はようやく納得してくれたようです。

でも、こんな事は何回もやりたくありません。ボクシングに夢を持ってきている人間の夢をぶち壊すようなことは。

それからO君はジムに来ることはありませんでした。何回は携帯電話に電話しましたが出なかったのでそれっきりになりました。

そんなO君の事を今でも思い出すことがあります。今頃どうしてるんやろう。